平成最後の大晦日

平成最後の大晦日

今年も色々あった
僕にとっても残念な出来事が1月に起きたりとか、
祖母が認知症と診断されるとか、
とあるきっかけでヒドラさんのサイトにブログ記事を投稿するようになったりとか、
大学を退学したりとか、
数年間音沙汰無くてずっと心の隅で心配し続けてたりもした人に再会できて嬉しく感じたりとか、
数年間休部状態だった太鼓部に新しく一人新入部員が入ってきて嬉しく感じたりとか。
それだけじゃなく、自分のことで、色々な気づきあったりもした年だった。


祖母の認知症のこと書くけど、
やっぱね、短期記憶が苦手になってきてるんだろうなぁって、祖母を見ていて思う
あと、日付や時間に関してもアレになってる。
最初は、祖父も祖父なりになんとかしようとして、祖母に怒ることが多くなったし、
母さんも祖母に怒ることが多くなってて、
ただでさえ認知症と診断される前から祖母は祖父や母さんによく理不尽に怒られてたし、
これ以上祖母が怒られることが増えるのはよくないとか、もしのままいったら徘徊が増えるかもしれないと素人ながらに予想したりとかして、
祖父や母さんをなんとか説得して祖母が怒られる回数をいくらか減らした
けど、何度も同じこと聞かれたりして怒ってしまったりするのはわかるから、怒るのは多少は仕方ないかなとは思う
僕は、なるべく祖母に怒ることのないようにしてる。
というか、祖母が認知症になる前からそうだったし、
そういうのは祖母に対してだけじゃなく、誰にだってそうだし、
何かを人に教える際なんかは特に大事にしてる。
まぁ、気をつけようとしなくても、お人好しだとか気が長いだとかそういう性格的にあまり怒らないほうなんだけどね。




次に僕のこと。
最近になって、自分自身が自分の心の状態を軽視してたことに気づいた。
実際の心の状態は、多分、もう壊れてるといってもいいかもしれない気がする。
それでも「楽しい」だとか「嬉しい」だとかを感じて今を生きることができているのは、生きるための価値観とかそういうもののおかげ。
前に書いた詩やブログ記事で言うと、"ゴーグル"だね
けどそれが、自分の心の状態を軽視してしまっていた原因だった。
んー・・・、でも・・・、今思ったけど、それだけじゃないかもね。
なんというか、上手く言えないけど、見て見ぬふりだった。
なんというか・・・どう言ったらいいんだろ・・・、・・・死にたい気持ち側の自分、"ゴーグル"をつけていないほうの自分の価値観とか思考とかそういうものを認めたくなかった、それも僕の一部なんだって、それも本当の自分なんだって、認めたくなかった。
だってさ、「誰も信じたくない」とか「自分が嫌い」とか「どうでもいい」とか「死ねればそれでいい」とか、あの自分は、そう考えてる。
・・・僕としては、"ゴーグル"をつけてるほうの僕としては、認めたくない・・・

・・・"ゴーグル"をつけてる自分と、"ゴーグル"をつけてない自分・・・本当はどちらも自分の一部。
"ゴーグル"は自分の価値観とかそういうものの一部として組み込まれてる感じだから、基本的には"ゴーグル"をつけてるほうの自分が表にでてる。
けど、それでもやっぱり、死にたくなることがある。

あと、"ゴーグル"をつけてる自分とつけてない自分が僕の一部として存在してるっといっても、「どちらかが演技をしてる自分」ってわけじゃないし、どちらも演技をしていない本当の自分。
このことは前の記事でも言ったね
この"ゴーグル"は、中学時代から、もう何年も使い続けてきたから、もうだいぶ自分の価値観や思考の一部として馴染んでるんだよね。
最初は新品で自分の手に馴染んでなくても、何度も何年も使ってくうちに自分の手に馴染んでくる道具とかってあるじゃん、そういう感じ。

認めて、受け入れて、しっかりと向き合う必要があるかなって、今の僕としては思う。
けど、向き合う場合には、まず、あえて"ゴーグル"を外さなきゃならない。心のためには、そうしなければならないかなって、考えてる。
病院の精神科だか心療内科だか行ったらどうなるかわかんないけど、可能なら、精神病棟だっけ、そういうとこに入りたいなとは思う。
"ゴーグル"を完全に外しっぱなしにしとくのはリスキーだから。物や人にとめられるようなことがなければそのまま死亡するかもしれないから。
・・・今なんとなく"ゴーグル"を完全に外しっぱなしにした状態のことを妄想したけど、ぶっちゃけほんとに実際に自分の首絞めたくなったし、左手をパーにして親指から中指までの指を首辺りに触れるようにして左手で頬杖ついてたんだけどそれがちょっとだけ首締めるような感じになった。衝動はしっかり抑えてたからこの程度だけど、まぁ、危険、うん。

あとさ、ぶっちゃけ自●する時に使う場所はもう決めてあったりする。
「死にたい」って気持ちによる衝動を完全に抑えようとしても完全には抑えられなかったってことが何度もあった結果なんだけど、
けどまぁ、一番近い場所でいけそうな場所探した結果なのに行くなら徒歩でも遠いし電車でも遠回りしなきゃで遠く感じるレベルで遠いおかげである意味命拾いしてる部分もある。やるなら飛び降り自●派だけど、インドア派だし、面倒くさがり屋だからね。

んでまぁ、自分の心のこと、思ったより長く書いてたけど、
次は心のこととも一応関係あるけど別の話ね

最近になって、もういっそ自分の価値観の多くの部分を見直すべきかなって思ってたりする。
前に、「自分を変えたい気持ち」が強すぎて、かえって過去の自分を否定してたり、自分を自分で追い詰める要因になってたりしてたことに気づいたし、
最近だと、さっき書いたけど、自分自身が自分の心の状態を軽視してたことに気づいたなんてこともあったし。
それに今の自分の価値観や思考は、今の自分や、自分の「なりたい自分」のためにはなってないんじゃないかなって思ったりしてて、見直す必要があるかなって。
なんていうかなぁ・・・ある意味で脳内の大掃除、断捨離とでも言えるのかなぁ・・・いやそれだと捨てるだけか。
まぁ、今までの自分の考えを別の考えに置きかえるように、今まで使ってた部品を上位互換品や後継部品に置きかえるような感じでやっていこうかなぁって考えてる。

ただ、心のことに関して、特に隣人愛とか一視同仁とか、お人好しとか気が長いとかそういうものに関わってくるようなものに関しては、あまり変える気はないかな。
それが僕にとって、僕のとても大事な軸だから。
この軸があってこその僕だとも思ってたりするから。
たとえ僕の心が壊れていたって、無償の愛を与えるという行動が可能であれば、与える相手が誰であろうと無償の愛を与え続けることをしたいとか、心から思ってたりするから。
無償の愛の押しつけはするつもりない。望まれれば与える。最期までそれをして死ねたなら、それもそれで本望だと思ってる。まぁコミュ障だし受け身だから、本当に、望まれないと、頼まれたりしないとアレなんだけどね(
因みにこの価値観は、宗教に興味でてくる前(中学時代)からのものだったりする。「隣人愛」や「一視同仁」って言葉を知ったのは高校時代なんだけどね。_(:3」∠)_

えーと、次何書こうかな・・・あ、そだ、少し前の行で言った「なりたい自分」ね
僕のなりたい自分は、「様々な人に手を差し伸べたり支えたりすることができる人」、かな
理由は、さっき言ったやつからある程度察せると思う
まぁね、人って、全く同じ人っていうのは誰一人としていないと思う
だから、人それぞれに他の人とは違った良さがあると思ってる
だから、その人の良さを活かせるようにしていきたい
例えば僕ならさ、お人好しなとこが災いして自殺未遂っぽいことになったこともあったけど、お人好しだからこそ、それに気が長いからこそ、人に尽くせたりする。
「ものは使いよう」だと思う。
悪いものと悪いものを組み合わせれば良いものがうまれることもきっとあったりするんじゃないかなとも思ってたりする。
そこで大事なのは、物事を多角的視点から見ようとすること。
一見悪い部分に見えるものであっても、うまく利用することができるやり方を見つければ、いくらかは悪い部分とは思わなくなる。
なんというか、ピンチをチャンスに変えるようなもの。
まぁ、色んな視点から見てみようとしても無理なこともあるかもしれないけど、その時はその時だね、諦めるのもありかもしれないね。



今年も色々あった、来年はどんな年になるんだろうね
今年も一年ありがとうございました
それでは、良いお年を!!!