無題

なんで人は、困ってる人を更に困らせるようなことをするのだろう
なんで人は、自らを加害者にしてまで加害者に攻撃をするのだろう
なんで人は、弱い者いじめをするのだろう
なんで人は、私刑をするのだろう

たとえどんな加害者であろうと、加害者である前に人なのに、
どうして加害者を人として扱い、話し合おうとすることができないのだろう
どうして加害者を人として扱うことができない人がいるのだろう。
加害者は、見方によっては、異常者ではなく正常者。
加害者という言葉が存在するほど加害者が存在することがありえる世界にいて、加害者が実際に存在しているから、正常者。
エイリアンとかプレデターとか機械生命体とか、そういう系のやつらとかじゃない、僕たちと同じ人。
人であるならば、僕たちもまた、その加害者と同じことをするかもしれない。もしかしたら、いつかね。

もしかしたら、これを書いてる僕も何かの加害者になるかもしれない。
そして、これを読んでる人たちも、何かの加害者になるかもしれない。
「自分がそんなことするわけない」って思うことがあれば、それ自体が間違っている気がする。
僕でもそのようなことを思うことがある、しかし、それをしっかりと保障する何かがあるのだろうか。
・・・無い。何もない。
いくら優しくたって、いくら何らかのルールや法律を厳格に守ってたって、何かのきっかけで突然自分が加害者になるかもしれないし、いつかは今と比べて別人のように変わっていることもあるかもしれない。
あるかもしれないけれど、ないかもしれない。ないかもしれないけれど、昔の自分はどうだった?今と比べてどういうところに違いがある?何故今の自分になった?何故今の自分に変化した?変化の要因はどこにある?

生きている限り、変化し続ける。
変化し続け、未来の自分が、今の自分では予想もつかない自分になってることもあるかもしれない。
未来がどうなってるか、未来の自分がどうなってるかなんてのは誰にもわからないはず。自分ですらわからないはず。
だからこそ、自分が加害者にならない保障なんてもんはない。
タイムマシンが開発されてたら違うかもしれないけどね。

加害者を否定し、攻撃するのなら、
いつかの未来で、加害者と同じことをし、否定され、攻撃されてしまったら、どうするのだろう。



加害者っつーのはさ、例えば、いじめの加害者ならストレスの発散でいじめをする人もいるらしいね
それを知った人によっては「は?、なんで何の関係もない人がそれでいじめられなきゃなんないの?(怒」って感じになるかもだけどさ、加害者が何故そうすることでしかストレス発散ができなかったんだろうね。
考えてみようよ、想像してみようよ。


加害者もさ、全員・・・とまではいかないかもだけどさ、何かの被害者だと捉えることもできると思う。
そこに目を向けず、加害者のことを悪者だと捉えることしかせず、一方的に攻撃するのは、違うんじゃないかなって、気がするんだ。


遅刻魔だった小学生時代の僕は、同級生にいじめられた、担任の先生に馬鹿にもされた。
けど、同級生は、もしかしたらストレス発散目的だったのかもしれないし、ストレスのせいでそうしてしまったのかもしれない。もしかしたらストレスではない何かが原因で僕をいじめたのかもしれない。
先生は、もしかしたら忙しすぎてストレスがたまっていて、無意識にストレスのはけ口にするような形で、遅刻魔な僕を馬鹿にしていたのかもしれない。

ストレスがたまりすぎれば、人に対して攻撃的になってしまうのも致し方ないと思う。
もしそういうさ、加害者っていうのかな、そういう人をどうにかするのなら、もしかしたらその人がいる環境や人間関係などに目を向ける必要があるかもしれない。
僕がそう考えるのは、お人好しだからだろうか、優しすぎるからだろうか。
・・・どうなんだろうね。


僕の中には、人に危害を加えるような、人を物理的に傷つけるような、そういうものの要因になるものがある。
それが存在してしまうようになった原因は、「自分への不満」だった。
小学生時代、ダメダメな自分を変えたい気持ちが強くて、けれど思うように変えられず、その不満の強さによって、高校時代だったか大学生時代だったかのどちらかの頃にできあがってしまったものだった。
「自分を変えたい気持ち」が強かった原因は、小学生時代の自分とその当時の環境のせい。あの頃の記憶に良い印象はあまりない。


また言うけれど、加害者によっては、何かの被害者だと捉えることもできると思う。
「自分」の被害者だとか、「環境」の被害者とか、「人間関係」の被害者とか。
加害者を悪者として捉えるとこまではいいけれど、悪者だからと一方的に攻撃するのは違うと思うし、
悪者だからこそ、何故あの人は悪者になってしまったかを考える必要があると思うし、
時に、社会全体でその「何故」を考えていったり、そういう悪者になってしまう人たちを減らす努力をしていく必要があると思う。








・・・はぁ・・・
人間関係ってもんは面倒くさいね
同じピースでも、必ずしも身近な人全員に当てはめることができるとは限らない
その人その人に合わせたピースを当てはめていく必要がある
人間関係はパズルだよ、謎解きだよ。

僕がこうして発言したことが、必ずしもそのまま僕が意図したとおりに相手に伝わるとは限らない
間違って伝わってしまうこともある。
だから、時に人によって言葉を変えていく必要があるし、言うタイミングを見極めたりすることも必要になる。
むずいしめんどくさい。あと怖くもなる。

掌編小説書きたかったけどそう言えるのかよくわかんなくなったりしてブログに書いた

記事タイトルの通り。
書いてるうちに「これ掌編小説といえるのかな」って心配になってきて、全部消して一から書こうと思ったけど消したくなかったからこっちに書いて満足することにする。

作品として書こうとしたやつの最後に「あなた」が二回でてくるけど、両方とも一人の人間(生前の人と死後の人)のことをさしていると解釈するのもいいし、それぞれ別々の人間(読者と死者)のことをさしていると解釈するのもいいと思う。
ぶっちゃけ特にちゃんとは考えず、なんていうんだろ、頭の中に浮かんだことをそのまま書いた感じだからなぁ。
あと因みに、僕のことがベースだったりはする、家族についてもね。ベースがそれってだけだから、(家族のこととか)実際とは違う部分もあるけど。

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今日は平日、
いつも通り電車で大学に向かい、勉強し、電車で帰る。

電車で帰宅中、自分は窓から色んな人を見ていた。
楽しげな会話をする人、車でどこかへ向かおうとする人など。


今を生きていてふと思う
何故人は生きるのだろう、と。

ある人は言う、
人は幸せになるために生きるのだ、と。

しかし、それではどこか腑に落ちないものがある。


幸せ、つらさ、楽しさ、苦しさ・・・
今まで色んなことを感じながら、考えながら、
この人生を歩んできた。
死が訪れれば、それらは全てなくなってしまう

遺された者にとっては全てなくなるわけではないのかもしれないが、
死んでしまった本人にとっては全てなくなってしまうのだろうと、自分は思う。


うまく言えないけれど、
幸せになるために生きるということに、意味はあるのだろうか
死んでしまえば全てなくなってしまうかもしれないのに、それでも生き続ける意味はあるのだろうか
・・・野暮な問いだったかもしれない


数年前、家族の一人が亡くなった。
その家族が亡くなる以前から、死について考えることはあったけれど、
家族の死によって、死をより身近に感じるようになった。

野暮な問いだったとしても問いたい
生きているあなたに問いたい
死後のあなたに問いたい

何故人は生きるのだろう、と。


・・・そろそろ自分が降りる駅だ、考え事はこれくらいにしておこうか。