自分の何かをどう見てどうするか

さっきあけおめことよろ記事書いたの、こっちを書くのが目的だったりする
そのうち書こうとか思ってたのに、まだ書いてなかったからね、それ書いてからにしようって。



人それぞれ、長所/短所あるよね
長所/短所は環境によって変わる
環境によって変わるんなら、その「『環境』と呼ばれる何か」に居なけりゃ
長所は長所じゃないし、短所は短所じゃない
なんつーか、それが存在するだけになるんじゃないかな。


結局、何かを通して自分の何かを見て、それを長所だの短所だのと自分が決めてるんだよ
自分のネガティブな思考を通してだったり、他人の価値観を通してだったりしてさ。


「水平思考」をしてみたら、多少は違ったものが見えてくるんじゃないかな
なんつーか、「枯れた技術の水平思考」ってのあるじゃん、あれみたいな感じ。


短所自体を何かに活用できるとしたら何に活用できるんだろうって考えてみたりとかさ、
短所の全てを活用することは難しいにしても、短所の一部であれば使えるのなら、何に使えるんだろう、とかさ、
短所の全てを活用することは難しいにしても、短所の一部を抑え込むことができれば長所になるのなら、どうすれば抑え込めるのだろう、とかさ、
短所の一部を長所に組み込んで活用できないだろうか、とかさ、
短所と短所を組み合わせて長所に活用できないだろうか、とかさ。
他にあるとしたら、「短所と短所を組み合わせた物の一部を抑えることで長所にとって使える物になるとして、長所に組み込むことができたならば、そうするためにどうすればいいのだろう」とかさ。
短所だって、きっとうまく使えば長所の力になるだろうし、もしかしたら長所そのものにもなるかもしれないと思うんよね。


短所/長所の話からズレるけど、ゴミになるようなものだってさ、うまく使えば実用的な物になったり、アート作品の一部になるかもしれないじゃん
使わなくなったデスクトップPCは、ケースのほうは加工して収納として使い、マザボ上の部品は取り外して趣味の電子工作で実際に使うとかさ、
自分の中にあって発散したくなるような闇は、ただ話して発散するんじゃなく、絵とか詩とかのような作品にして発散してみるとかさ。
相当追い込まれてれば、そういう発想は難しいかもしれないけど、思考をもっと自由にさせてやれば、色々思いつくんじゃないかなって気がする


自由な発想っていうのかな、そういうのが難しければ、どこかの相談所やらカウンセリングやらで会話しながら考えていくのもありだろうし、
ネット上にある記事やら漫画やらなんやらを読み漁るのもありだろうし、
なんかの本、めっちゃ真面目な本読んだり漫画読んだりするのもありだと思う。
自分にはない発想をしていることがあったりするから、何かの発見に繋がるかもしれないし。
自由な発想が難なくできていたとしても、そういったことをするってのもありだと思う。
1人で考えるにしても、限界はあるだろうからね。


もし、そういう行動が無理なら無理でもいいと思う。
なんならさ、近所を散歩とか、楽しくゲームするとか、好きなことしてりゃいいと思う。
突き放してるわけじゃない、心を病むようなことは避けろってこと。
悩んだり焦ったりしてどんどん心を病んでくことになるよりはマシだよ。
スランプだってそういうもんだろうと思う。


誰にだって限界はある
あるけど、その限界を越えようとすることができる人もいれば、できない人もいるだろうと思う。
できないのは、実力がないせいもあるかもしれないし、
"その時"が来ていないだけかもしれない。
どんなに頑張っても、無理なときはある。
焦ったり、悩んだりするのはまぁいいにしても、
それが原因で心がどんどん疲弊していって、病んでいくようなら、
一旦休んで、忘れて、そこから離れて、
好きなことをしたほうが、ずっといいと思う。
死ぬよりはマシ、心の後遺症のようなものをずっと抱えることになるよりはマシ。
命もそうだけど、心もめちゃくちゃ大事というか、大切なものだしさ。


死にたい気持ちが、心のなかにずっと存在するようになったら、ほんとに人生が余計にめんどくさいものになるからね。
無理してもいいけれど、死にたい気持ちがでてくるほどの無理はしなくていい。
それほどの無理をするとしても、「誰かのために、人生を賭けてでも無理をしよう」みたいになったときくらいでいいよ。
人生に死にたい気持ちは要らん。無いほうが気楽でいい。
死にたい気持ちを活用できなくもないけど、ほんとなら無いほうがいい。
活用できるにしても、常に何十キロもの重さの物を背負ってるようなもんだし、下ろしたくても下ろせないからな、無いほうがいい。