不登校

先週だったか、ひきこもり先生ってドラマの最終回(再放送)を途中から見てたんだけど、
なんか書きたくなって書いた。
いつも通り、僕としての考えとか書いとく。
(因みに言うとこの記事、最終回見たその日から翌日にかけて9割程度まで書いた状態でずっと放置してた())



皆と同じでいる必要は必ずしもない
皆と違うからといって自分を責める必要はない


皆と同じであることにこだわる必要はない
皆と違うところがあったとしても、それでいい。


他人に「皆と同じ」を強制される筋合いは基本的にはない
皆と同じでいることを選ぶか、皆と違うことをすることを選ぶかは自分次第だ。


止まってもいい、逃げてもいい
けどいつかは必ず動く必要はある




皆と違うっていうことは、人によっては不安だったり嫌だったりするだろうね
僕としても、そういうのは不安の種になったり嫌だったりした。
例えばさ、小学生時代の僕は、宿題をちゃんとやってくることができなくてね、それが嫌だった。
宿題をちゃんとやってくることができてる周りが不思議で、羨ましかった。
宿題が原因で遅刻魔になって、なかなか直らないから、しまいには担任の先生に呆れられて、その先生に馬鹿にされるようになった。
自分が悪いことはわかってる。けど、どうにかしたくて行動しても、どうにもできなかった。何度トライしてもだめだった。
何度も自分を責めたよ。
それで他の要因もあって、結果的に、死にたい気持ちが自分の心の中に居座ることになったのよね。
皆と同じになりたくて、ダメダメのダメ人間な自分をどうにかしたくて、そのために行動しようとした結果がこれなんだよね。
けどもう、過去は過去だ、しゃーない。
まぁあとの話は割愛して・・・


本人自身に何らかの問題があったとして、どれだけ言ってもその問題を本人自身がどうにかしてくれないなんてことはある
「どうにかする気がない」ってことも、もしかしたらほんとにあるかもしれないけれど、
本人自身が一番困ってるってことも充分ありえる。少なくとも過去の僕自身がそうだった。
「本人自身が誰かに頼らない」じゃなくて「本人自身が誰かに頼れない」といった状態であれば尚更だろうね。
本人自身の問題って、必ずしも本人自身だけで解決できるとは限らないのよね
だから、そういうときは必ず誰かの助けが必要になる


問題っていうのは、表面上のものを解決させただけでは完全に解決したことにはならないのよ
問題っていうのは、ものによると思うけど、例えるなら「雑草」だったりするのよ。
見えてる部分だけ引っこ抜けば一見きれいになったように見えるけど、根っこの部分が残っているとしたら、時が経てばまた表に生えてくるのよ。
そのたびそのたび引っこ抜くようでは、疲れるよね。それにエネルギーの無駄。
だから、そうじゃなくて、土を掘り返すとかして、根っこまで完全に取り除ければ、もう二度と生えなくなる。
そんな感じでさ、表面的にはわからないような、問題の奥にあるもの、根本的な部分も含めて解決することこそが、本当の解決だと僕としては思ってる。
そのためには、本人の話をよく聞くっていうか、なんつーかね、
カウンセリングとかで出てきたりする、「傾聴」、「受容」、「共感」といったものが必要だったりするんだろうねって思う。
あと、「安心」、「安全」だね。「心理的安全性」なんてものもあるよね。
「この人になら自分の全てを打ち明けても大丈夫だろう」みたいなものがなけりゃ、家族に対してですら全ては話さないでしょうよ。*1
犯罪のような「やっちゃいけないこと」ですら、時に否定せずに、話し手の「自分のペース」に合わせて聞いてくれる聞き手の存在って、必要だったりすると思うんだ。


それと、これは僕の経験則になっちゃうかもだけど、
焦ったり急いだりするってのは、精神面には悪影響だったり、何か失敗といったような悪い結果をもたらしたりしやすい。
まぁ、時にはそうなっちゃうほどの事が起こることはあるし、今後もあるかもだし、しゃーないけどさ、
本当に休むべきときには、そういう焦ったりしてしまうようなことから距離を置いて、意識することなく、休むことに集中したほうがいいと思う
けど、それが難しくてなかなかできなかったりしてもいい。慣れてなけりゃそうなるのも無理はないから。
どれだけ長い時間かかっても、だんだんとできるようになっていけばいい。
休むことに集中することが難しいなら、夢中になれることをひたすらやってもいいと思う、ゲームとかさ。
現実逃避でもいいんだよ、それだってきっと休息になるはずだからさ。


他人が何を思ってるか、感じてるか、考えてるかなんて、
心理学学んだとしても、それだけじゃわかりっこないんだよ
だから自分に手を差し伸べてくれる相手に対してでさえ不安になるときもあるだろうさ。
だからこそ、「いけないこと」でさえも、否定せずに怒ったりせずに聞いてくれる人って、とても安心できる存在になりえると思うんだ。
当然叱ってくれる存在も大事だけど、それと同じくらい、話し手の話す内容が何であろうと否定せず聞いてくれる存在も大事だと思うんだ。


んでまぁ、ちょいと僕にとっての「皆と同じ」「皆と違う」ってのに関しての考え方書くけどさ、
「皆と同じ」って、「皆と違う」よりも特に重視されやすいんだろうなってイメージあるんだけどさ、
「皆と同じ」って、安心できる反面、面白みがないと思うんだわな
面白みのない、特定の一色にとても近いシンプルカラー。
誤解のないように念の為言うと、ここで言う「皆と同じ」は、「特に何もしなくても皆と同じになってる」ってのは対象外で、
「皆と同じ」の対象としてるのは「(皆と同じでいなきゃならないと考えて)皆と同じでいようとする」ってこと。
皆と同じであることが必要になることはそりゃあるだろうけれど、常にそうである必要ってないと思うんだわな。
僕としては、「皆と違う」ってことのほうが面白いと感じる
「皆と違うことしてるオレかっけー」とかじゃなくて、その人その人の個性、色、形がでて、
それが他の人と混ざりあえば、面白い色っつーか、面白い絵になるかもしれない
祭りやってるときのものなんかさ、色んな「違う」が混ざってるから良いんじゃんか、面白いじゃんか、凄いじゃんか。
ヒラサワ氏の創る音楽なんか、物凄く独特で、とても個性的なんよ。それが僕にとってはとても魅力で、とても面白いと感じるんよ。
自分の持ってるものを、持ってる色や形を、「皆と同じになりたいから」「皆と同じじゃないと不安だから」って理由で隠してしまう、周りと同じ色や形にしようとするってのはもったいないと思うんだわ
法律的に禁止だから的な理由ならまだしも、そーゆー皆と同じかどうかが関係してくるような理由でそうするくらいなら出してみてほしいと思うんだわな
未来を変えたり、想像もできなかった新しい未来を創ったりしていくのは、いつだって新しいこと、面白いことをやっていく人たちなんよ。それと、「偶然」もね。



・・・まぁ、そうとは言いつつも、
僕自身も、皆と同じになろうと、皆と同じ色や形になろうとしてきた身だ。
そうしようというところが未だ抜けきれてなくて、染み付いてるから、自分本来の色や形を、個性を出すことが苦手な部分はある
今更、個性を出していこうとするのって難しいよね、長年やってきてるせいで染み付いちゃってるんだもの。
難しいけれどさ、そうしていくことに、自分を変えていくことに、遅い、遅すぎるっていうのはないと思う
「今後の人生で今が一番若い」みたいな言葉あるけど、自分を変えていくことに関しても同じだと思う。
だから、どれだけゆっくりでもいい、時には立ち止まってもいい、時には逃げてもいいから、今からでも自分を変えていくことができればいいよねって、思う。



人生って、何が起きるかわからんし、
未来なんてわかりっこないんだよ
わからんから不安にもなるだろうし、
人によっては、自分の人生に絶望して、死にたくなることもあるだろうね
けど、わからんからこそね、
悪い結果が出るだろうと予想したことが、実際には大外れで、良い結果が出るなんてこともある
短期的に見ればなんとかならなくたって、長期的に見ればなんとかなってることもある
「偶然」のおかげで、予想もしてなかった良い人生になることもある。
ソースは僕。
だから、試しに生きてみるって方向で生きてみるのもありなんじゃないかって、僕は思うかな。


自分が将来何やりたいかわからんのであれば、
どんな小さなことでもいい、誰でもできるようなことでもいいから、
何か始めてみるのをおすすめしたい。
手当たり次第に手を付けてみるのもいい。
きっとそれが種になる。
僕の場合は、Q&Aサイトで回答することが、意図せず種になった。
だから今の僕は、心理系の職で働くのが夢なんよね。


生きるうえで特に大事なのは、命と心。
死んでしまえば元も子もない。
心が壊れることは生きながらにしての死。
命も大事だけれど、心も大事なんだよ。
命と心を大事にして、人生を歩んでいってほしいなって、僕は思う。


結婚はパートナーとの二人三脚とか言われてたりするけど、
人生だって、「自分自身」というか、自分自身の「心」との二人三脚なのよ。
自分自身を置いてけぼりにしちゃえば、傷ついて、時に苦しませることになる。
人生苦しむことも、つらくなることもある。
けど、必要以上に苦しさを、つらさを感じるようなことをしなくたっていい。
何度でも言おう、大事なのは、心だ、命だ。


自分を縛り付けてるのは自分。
そういうこともある。
もしそうであるならば、
自分がそれを自覚して、
自分を縛り付けてるものを取り除いて、
自分を自由にさせてやることができればいいよね


人生生きてりゃ誰にでも迷惑はかける、誰からも迷惑を受ける
大小構わずいちいち気にしてりゃ、そりゃ生きづらい人生になる
「迷惑かけたくないから、一人で生きなきゃいけない、独り立ちしないといけない」
そう考えちゃうときもあるだろうさ
べーつにいいんだよ、そう考えなくたって。
誰でも生きてるだけで何かしら誰かに迷惑かけてるんだよ、人にも、虫にも、植物にも。
人によるかもだけど、虫なんか嫌なら潰しちゃうでしょ、植物なら歩いてるだけで踏み潰しちゃうでしょ、
けど普段はそういう存在に迷惑かけてることなんか気にしてないでしょ。
僕なんかは、そういうのいちいち気にしてたら面倒くさくなるわ、虫に関してはなるべく生きたまま外に逃がそうとすることもあるけどさ。
ま、そういう感じでいいんだと思う。
心の余裕がないときこそ、そう考えて、あまり気にせず生きてみてもいいんじゃないかなって思う。

周りを気にして、しかも何でも一人でこなそうとして、
つらいにつらいを、苦しみに苦しみを積み重ねて、自分の人生を歩むことを難しくて何になる
まぁ、でっけぇブーメラン()なんだけどさ、
うまく言えないけど、そういうときこそもっと気楽に考えよう、子どものように後先考えないで生きてみようってとこなんじゃないのかな。



今の僕はニートよ。
今後のために必要だと考えたうえでのニートだから、僕としてはこれでいいと思ってる。
ただ、完全に今の自分のこの状況を受け入れることができたわけでもないのよね。
まぁ、だからといって焦ったりすれば、自分の本当にしたいことが遠ざかっていくことになる。
精神面があまりよくないからね。
「皆と同じ」を目指したから、自分の心をだいぶ消耗させてしまった。
周りのせいで自分の心が傷ついたっていうのもあるけど、
「皆と同じ」を目指したいがためにした行動によって、意図せず自分が自分の心を傷つけてしまったのもある。
「皆と同じ」を目指すのはいいけれど、目指し方を間違えれば、無理に目指そうとすれば、こうなってしまうこともありえるのよね。
僕としては、こういったような経験をしてしまう人たちがなるべく少なくなればいいなって、思うかな。


因みに、僕は元不登校者で、小6後半と中1(途中)~中学卒業まで不登校で、
小学校時代の卒業式では途中参加ながらも通常の卒業式には出席したのよね。
んで、中学時代には、中間教室っていうところに通ってたことがあるんだけど、
まぁ、「中間教室」は、ひきこもり先生でいう「STEPルーム」みたいなとこと思ってもらえればいいんじゃないかなと思う。
で、中学での卒業式は、通常の卒業式には出席せず、そこに通う人たちのためだけの卒業式がしっかり用意されてたから、僕はそっちに出席した。中間教室に通う人たちのためだけの卒業式にね。
場所は、学校内のどこかしらの教室だったのは覚えてるんだけど・・・どこだったかな、多分視聴覚室とかだったと思うんだけどね、そこで中間教室に通う生徒、先生、保護者達が出席して、卒業式が行われた。
卒業式直前、先生が僕に卒業式のやり方を教える際に間違ったやり方を教えてしまって、それを実際に卒業式の中でやった際に笑いが起こったけど、僕も笑っちゃって、
間違ったやり方教えた先生が卒業式後に謝りにきたけど、許容範囲だったし、(当時の自分としてもネガティブに捉えなかったし、だからあの時僕も笑っちゃったし、)今となってはそれもそれで良い思い出よ。
もしかしたら中間教室に通う生徒でも通常の卒業式を選べたかもしれんね。そこらへんについては全く覚えてなくてアレなんだけどさ。
まぁね、成人式なんか特にそうだけど、卒業式、特に小中学校の卒業式って、一生の間に何度も経験できるわけじゃないだろうし、
そういう特別なことを経験したくても、不登校だったりとかするせいで経験できないのって凄く残念だよね。
僕としてはさ、不登校でも、通常の卒業式には参加できなくても、あの卒業式に参加できたことはとても良かったと思う。
もし参加できなかったら、もしかしたら今の僕の中にその心残りがあったりするかもしれんね、
中学の修学旅行に(参加できなかったわけではなく)参加しなかったことが今も心残りだったりするし。

*1:僕なんて、「自分がゲイである」ってことは、家族の中では妹(腐女子)以外には打ち明けてないからね() 妹から家族に言っちゃってもいいんだけど、僕からは言いにくいし、不安なのよね。