というわけでブログタイトル変えた

記事タイトルの通り。
このブログ記事書くとしてもこの記事を書く前に投稿した記事よりは短くなるだろうけど、
ちょっと書いてみようかなってことで書いてる。

あと、ブログタイトル変えたあと、しっくりこないことに気づいた
もういいやめんどくせぇ(


ブログタイトル変えるきっかけは、ちょっと過去のことを思い出してたからってとこかな。
ちょっとね、数ヶ月前、揉め事っていうのか、トラブルっていうのか、そういうものに首突っ込んだことがあって、ただでさえ心が疲れてる状態なのに、更に心にだいぶ負担をかけることにもなってね・・・疲れちゃった。*1
その後ちょっと自分の中での悩みごとが生まれていたっていうのを、ふと思い出して、ちょっとだけ考え事してた。
今思えばさ、正しい選択をしたところもあれば、間違った選択をしたところもあったと思う。
あと、だいぶ心に負担がかかってた状況のときには(死にたい気持ち関連の部分以外で)自分自身に重大な不具合が発生してたようにも感じる。思考と発言が乖離してた部分がほんの一部あったっていうか。
まぁ、頭がちょっとおかしくなってた、当時の自分にとっては死にたい気持ち関係の部分を除けば全て正常のように感じられていたと思うけれど、今思えば全て正常というわけじゃなかった。心にだいぶ負担かかってた状況の時だったから、そのせいかもね。
んまぁこの話は終わりにして・・・





人によって、どうすればたくさんの人が幸せになれるのか、みたいなものって違うよね
「何で人を幸せにしたいか」っていうのも人それぞれだよね、パンで人を幸せにしたいとか、化粧品で人を幸せにしたいとかね。
「人を助けたい」でも、介護用品で人を助けたいとか、外科医になって人を助けたいとか、ITで人を助けたいとか、色々あるね。

んでまぁ、だから人が数十人集まっていても、いくつかに別れたりする。
Aという問いで(答えが)自分と一緒だった人が、Bという問いとなると離れ離れだったりとか。
見方が違うからなんだろうね、人それぞれ。
経験も知識も違うよね。
当たり前なことだろうけどね。


なんというかさ、生きていて、
自分と意見や考えが違う人に出会ったりもするよね。
ついつい否定したくなったりもする。
けど、もしかしたらゴールは自分と同じかもしれない。
選択する道のりが違うから、こうも意見が自分と大違いなだけで、ゴールは同じなのかもしれない。

カーナビや地図アプリに道案内をお願いしようとすれば、カーナビによって、地図アプリによって、表示される経路が違ってくる。
そんな感じなのかもしれない。

それならば、何故自分と同じゴールを目指すうえでそういう選択をしたのか、詳しい理由を相手に伝わるように、相手に分かってもらえるようにしっかり話すのが大事になってくるのかもしれない。一緒に考えるのならば尚更。
・・・ちょっと僕の性格的に弱気だからアレだったけど、「かもしれない」じゃなくて、もう断言しちゃっていい感じのものかなって思う。
んー、まぁ議論だよね、議論。

あと、たとえ相手が理由を言わなくても、相手の意見、選択について、何故相手がその選択をしたのか、そこに焦点をあてて考えたり聞いてみたりする必要があったりもするんだろうなって思う。

行動や意見の全てが全て悪いものとは限らないだろうからね、もしかしたら一部を取り入れることによって更に良いものができあがるかもしれないし。




過去のことやさっき考えてたことを思い出しながらこうして書いていてさ、やっぱ自分ってまだまだだなって思う。
だからって死にたい気持ちが湧いてきたり自分を責めたりするわけじゃないけど、なんというか・・・なんか、こう・・・、・・・うまく言えない。
・・・うん、まぁ、・・・まだまだなんだなって。うん。

*1:疲れちゃった 訳:(本当に)人生を終わりにしたくなった

これからブログタイトル変更するからその前に下書き状態だったこの記事を書いとこうと思った

記事タイトルの通り。


この記事ね、「そこにあるものは、いつか何かに使えるから、そこにある。」ってブログタイトルにした直後にブログタイトルの関係で書いてたやつなんだけど下書き保存したままずっと放置してた(
あと、個人的にしっくりこない感じのブログタイトルだったことは今ここでぶっちゃけとく(
んで、この記事、最後にイジったのが今年の5月25日の11時49分16秒だったみたいだね、3ヶ月くらい前なんだねー、短命w(
まぁそれはともかく、せっかくだから下書きのままにせず、ある程度書きかえたりはしつつも0から書き直すようなことはせず、当時の自分が書いてたこととかをそのままにしたりもしつつ投稿しとく。

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「そこにあるものは、いつか何かに使えるから、そこにある。」ってブログタイトルは、
Togetterでまとめられてた、断捨離が関係したやつ見てて思いついた。


最後に変えたのいつだっけ、(5月の)数カ月前とかだったよね?
短い生涯だったね、このブログタイトルにする前のブログタイトル(



んでまぁ、
なかなか捨てられない物がありすぎる人とかいるよね
僕もその一人だったりする


でまぁ、そういうのを、僕みたいな人じゃない人っていうか、断捨離とかするような人からしたら、良く思わないかもしれないね


けど僕にとっては必要なものしかないんだよね。
家電とかそういうものが入ってた空箱なら物を売る時にそれの空箱もあれば高く売れるとかさ、パソコンなら部品取りに使えるとかLinux入れときゃまた使えるとかさ。
人によっては断線した電源ケーブルをまた使えるようにすることもできるだろうからね。僕はやらないけど、祖父がそんな感じのことを実際にやってることがある。断線したものを使ってるのかは知らないけど、古そうな汚れたやつ使ってるのは確か。


あとね、うちの父さんは新聞紙を捨てることなく積み上げたまんまな人だったし、それに対して母さんは凄く不満だったようだけれど、
ほんとのとこ、父さんは何故新聞紙を捨てずにああしておいたんだろう・・・
きっと何か理由があるんだと思うけど、父さんに聞くのは正直言って勇気いる・・・最近は用事以外はほぼ会話しないのもあるし・・・


僕から見てもあの新聞紙は不要物だよ
けど、もしかしたら僕にとっての空箱と同じように、必要と言えるような理由や価値があるのかもしれない
僕はそう考えるかな



物の見方っていうのかな、この物は価値のあるものかどうかっていうのって、人それぞれだよね
でまぁ、この例えも人それぞれにはなるだろうけど、例えば自分が着るものを選ぶとして、今の自分にとって自分が着る価値があるものを選ぶとして、
女装に興味があったり罰ゲームで女装することになったりした男がスカート見れば「価値ある」と判断するかもしれないし、
女装に興味がない男がスカート見れば「価値なし」と判断するかもしれない。


ゴミとされることがあるものもさ、フィルムケースは何かの工作に使えるし、読み取れなくなったCDはカラスよけに使えるかもしれない


やっぱりね、物の見方次第だと思う、不要物になるかならないかっていうのは。



話飛ぶかもしれないけど、ほんとはここから一番僕の言いたかったこと。
人に関しても、今まで言ってきたことと同じことが言えると思う
AからすればBは価値のない人間かもしれないけれど、CからすればBは価値のある人間かもしれない。
ただ、人って色んな人がいる、変化が止まることなく変化していくものだから、価値ある人間かどうかっていうのは常に変化するものなんだろうなと思う
なんつーか、価値あるとも言えるし、価値ないとも言えるっていうか。
・・・うまく言えない・・・
んー、まぁその人の価値ってのは、その時々によって変わったりするからなぁ・・・
語弊を招くかもしれないけど、なんつーの、究極的に言えばっていうのかな、それで言えば「価値はない」でもいいかも。
その人自身に価値はない、そもそも価値そのものっていうのかな、それは人自身には無いと思う。「価値」の「k」すらない。
ただ、他人や自分がその人自身、自分自身を価値というものさしで測ってるにすぎないと思う。


んあー、考えながら書いたらなんか別方向いった感じする
あかんこれ。まぁいいけど。


もうこの記事の中で書いてきたやつ無視するけどw、(((((((((((
なんつーの、そこにあるものはそこにあるだけで、そこにあるから価値という概念もあるということはなく、ただそこにあるだけ。
そこにあるものを見ている人がそこにあるものを価値というものさしで測っているにすぎないんだろうなって思う。


で、人そのものに「価値」の「k」すらなく、自分や他人が自分を価値というものさしで測っているにすぎないと思う。


だからまぁ、そういうもんだからそれ+αで断捨離でのトラブルがあったりするんだろうなって思う。


大半の人からゴミだと思われるようなものだって価値があるもないもないんだよ、「価値」の「k」すらないんだよ、そこにあるだけなら。
けどさ、同じものでも、人によってはそれをそのままゴミとして捨てる人もいれば、アートに使おうとする人もいる。
落ち葉だって、人から見ればゴミかもしれないけれど、植物からすれば大事なものかもしれない
それと同じように、
自分から見ればゴミに見えるものでも、自分以外の人、例えば自分以外の家族だとかルームメイトだとかからすれば大事なものかもしれない、心を踊らせてくれるようなテンション上げさせてくれるような心の支えになるような大事な物かもしれない。一見ただのきれいな石に見える石ころは、もしかしたら麗石(手元供養のアレ)かもしれない。
冷蔵庫のプリンだって、一見ただのプリンだけど、誰かのプリンかもしれない、妹のプリンかもしれない。食べ物の恨みは恐ろしい


なんつーかなー、思ったけど、
たまにはさ、ゴミを捨てる前にさ、「これが価値あるものだとしたら、使えるものだとしたら、どういうものになるんだろう」っていうのかな、そのような感じに考えてみるっていうのも、面白いかもしれないね。




車輪の再発明した気がするけど、そもそも僕の考えって多分車輪の再発明だらけみたいなもんだろうし、これからも頭の中がより車輪だらけになるような感じで再発明しつづけるよ、
本読むのめんどいし、自分で考えまくったほうが楽だし(